芸術論講座 #001:
近代身体とその表象をめぐって
#001
近代身体とその表象をめぐって
2014.01.30 (thu)
講師:相川宏
文芸学/日本大学芸術学部芸術教養課程教授
■講座概要
文明開化この方、われわれに自明として慣れ親しまれた身体表象は、ひとつの歴史的起源を持っている。
その起源は、近代の知の展開を開始する画期に位置づけられる。その画期とは、いうまでもなく、コギトの誕生時にほかならない。
デカルトの仮借無き「方法的懐疑」によって、ついに疑い得ぬ知の拠点としてコギト(思惟する事象)が主体として定礎されたとき、
近代身体の数奇な運命がはじまった。それは、まず、外延体として、近代的な主体から疎外され、客体に組み込まれて、
近代医学をはじめとする近代諸科学の対象となった。だが、身体はやがて主体のもとに呼び返されることとなる。
近代国民国家の国民を形成するためには、近代的な主体に帰属した「合理的に機能する身体」が不可欠だったからである。
近代身体は、一方で、客体として表象され、他方では、主体化されて機能に還元された。
しかし、我々は、主客に重層化された身体を自明としながら、同時に生きられる身体を生きている。
この生きられる身体は、客体としての身体とも、機能としての身体とも一致しない。
この非還元的な身体は、それが主客いずれにも還元不可能であるが故に、主客対項の構制をとる近代知において、近代身体の自明性のうちに隠蔽された。
この隠蔽された身体は、いかにして露開されるのか。身体をめぐる芸術的探究は、この課題に向けた試みのうちにある。
■レビュー
人の身体は、主体と客体に分けられる。客体は、意識から独立して存在している外側のことである。それを認識、対象化、表象することは可能であるが、それ自体が主体と離れて生きることはできない。主体とは、「思うこと」である。その場に起こっていることや物は、幻覚かもしれないがそれを見ていると「思う」ことは、事実であり、それは他人が計れるものではない。つまり、「感じる」ということは、他が疑うことはできないのである。この感覚は、様々な器官を媒介としている。対象物によって感覚は変化するため、一番騙されやすい部分でもある。ならば、外部の触発なしに感じること、感覚器官を介さずに感じることとは何か。それは、『生きている』ことを「感じている」ことということになる。だがそれは、外部ではないため、認識、対象化することはできない。客体は、それ自体が生きることができないため、身体と対置することはできない。ならば、主体をいかにして表出、表現するか。それが、肉体をめぐる身体表現において対置するための方法である。この講座では、近代身体における身体の捉え方、映像を通して見る様々な身体の表現方法を学んだ。[須田有希子]
■講師プロフィール
主な研究領域として<美は思想足りうるか、思想は美足りうるか>を基底的な問いに据えた、
美的理念の思想的解明と思想史上の美的結実の追究。
また文学概念の諸制度を文芸に即しつつ内在的に解析する試みや、
身体と肉体の相克をめぐる言説集蔵体の文芸学的解読など。